ある就活生は「面接官は馬鹿である」と言う

昨日、某損保(東京会場)の三次面談を受けてきた。結論から言えば、次のステップには進めなかった。しかし、面接官と相性が合わなかった、ご縁がなかったという非生産的な理由で片付けてしまう気はさらさら無い。観察して得られた認識を、教訓としてまとめておきたいと思う。(※この文章には、面接弱者として多少のルサンチマンが混入している可能性がある。)

 

はじめに私自身の反省を述べておきたい。質問されることが予想できたのにかかわらず、「コンピテンシー面接」と称する面接において、小学校から現在にかけての一貫したストーリーや行動の合理的理由(特に小学校→中学校にかけて)が語れなかったことは、大いに反省に値する点である。事実如何を問わず、これはきちんと「対策」をしておく必要があった。

 

面接対策を軽視する諸兄もいるだろう。「嘘はつきたくない」、「それでは本当の自分を判断してもらえないのではないか」、「内定を得て入社したとしても、ミスマッチが生じるのではないか」といったような批判があるのは予想している。だが私の言う「対策」とは、自らの虚像を作る行為、すなわち無から有を作り出す行為では決してない。それは何よりも、過去の自分に対する「誠意」であり、面接担当者への「おもてなし」である。

 

面接担当の立場に立てば、判断材料は目の前にいる学生の「発言」に頼るところが大きく、したがって面接の場で「発言」されない事実や思考は彼らにとって無きに等しいのだ。たとえ過去の自分がどんなに素晴らしかったとしても、それが面接担当者に伝わらなければ、単なる偶像でしかありえない。反対に、過去どんなにみすぼらしい人生を歩んできたのだとしても、その尻拭いをして自分を救済してあげられるのは、現在のあなたしかいない。どちらにせよ、自分の人生を真っ向から肯定し、過去のすべての自分に意味を与える行為。それこそが私の言う「対策」であり、自分に対する誠意の在り方だと思うのだ。

 

また同時にそれは、面接担当者のための気遣い、すなわち「おもてなし」でもある。彼らにしてみても、学生が対策をしてきてくれた方が、要領を得た回答が返ってくる期待値は高まる。ひとつの問いに対して回答の要点を掴みやすいならば、その集積として様々な角度からの質問を重ねる時間の余裕が生じる。質問のパターンが多くなるほど、「どんな人間なのか」を判断する材料が増えることを意味するので、ミスマッチを軽減することにもつながる。

 

面接担当者は神ではないので、学生の「人となり」をたかだか30分程度で判断することなど到底不可能だ。フランスの哲学者ロラン・バルトは自身の著書で、「神話はものごとに、説明の明晰さではなく確認の明晰さを与える」と言っている。面接担当者は「目の前の学生は究極的にはどのような人間なのか」という真理を追求したいわけではない。彼らは自らの判断に、確認の明晰さを与えたいのだ。そのための根拠となるのは、面接で得られた「アンケート結果」だけだ。これには、採用関係者の間で共有可能であるという前提がある。彼らが求めているものは、他者に伝達可能な捨象された「あなた像」でしかなく、あなたという存在の包括的理解など到底成し得ない。

 

どんな人材を採用するのか、あるいは過去に採用したのかという基準は、社内で共有可能なものでなければならない。学生の資質を論理立てて上司に報告することも、人事部内で共有することもできなければ、面接担当者の責任は過大なものになってしまう。だから学生が、「自分のありのままを話せば、適切な判断を下してくれる」と面接担当者に期待するのは土台無理な話なのであり、要するに学生の態度としては、企業に採用するか否かを委ねるのではなく、採用根拠をきちんと与えなければならないということになる。もちろんそれには、具体的事実が伴っていなければ、共有可能な評価にならないことには留意しておきたい。

 

私は、「面接担当者は馬鹿である」と思った方がいいと考えている。これは溜飲を下げる目的の悪口にしか聞こえないが、ある意味においてこの認識は有効である。要するに、彼らは赤子同然なのだ。子どもは周囲の世界と触れ合った経験が相対的に少ない。子どもが世界を認識するツールは、親の語りかけ・語った内容に大きく依存している。親が子どもに対して話したことこそが、その子どもが見ている世界を言葉で区切り、色を付け、分類し、理解するベースになるのだ。子どもは知能指数という観点では馬鹿であるにもかかわらず、私たちは子どもを「馬鹿にする」わけではない。むしろ丁寧に、誠実に物事を教えようとするはずだ。

 

同様に面接担当者は、私という存在を理解するにはまだ「子ども」すぎるし、一つひとつの断片的な質問への回答から、学生の人となりを総合的に類推することができない程度には馬鹿である。だからこそ学生は、そんな面接担当者にもわかるように、自分という世界を言葉で表現しなくてはならない。あなたの発言をベースにして、面接担当者は「あなた」という世界観を作り上げるからだ。しかしそれは決してあなたではない。あくまで面接担当者が捉える「あなた像」と「自分」は異なるというのが大前提だ。

 

つまるところ、内定を出すか・出さないか。その判断の材料になるのは、「人間性」や「行動特性」、「性格」など全人格的な要素の集合体としての「あなた」ではなくて、「応募書類の内容と面接での言動」のみだ。そこにしか、自分は表現されない。それを誤解してはならない。「人物重視」を謳う面接のこのような実態が、学生にとってひどく歪んだ形で認識される場合には、「就活自殺」にもつながりかねない危険な考え方を招く。このことを企業・学生双方きちんと認識しておくべきだろうし、企業はあらかじめ「対策」をしてくることを学生に推奨すべきだ。

 

企業側は、「私たちは面接の場でしかあなた方を判断できないので、私たちが採用判断に用いる材料として、一貫した『人物像』を作ってきて下さい」とはっきり言明すべきなのだ。企業の採用担当は、「私たちは、学生の経験の華やかさではなく、どんな人物かを丁寧に判断します」などと決してのたまってはならない。その傲慢な認識は、企業と学生双方にとって不幸な結末を招く。採用面接という限られた時間で「人を判断する」ことの限界をきちんと提示すべきだ。