TOEICをなんとか褒めちぎってみる

前回、TOEICは「評価されないべき」という記事を書いたが、それでも評価されるべきだとしたら、どんな点において評価すべきか、ということについて触れてみたい。

 

まず当然のことだが、TOEICは解答ミスを減点しない方式を採用しているため、スコアは低いよりは高いほうが良いし、高ければ高いほど良いと言える。730点のほうが600点よりも良いに決まっているし、ましてや990点などは最高評価されるべきである。 (ちなみにスコアが高くてダメな理由を探してみたが、高得点保持者はそれに過度に依存してしまい、そのことをアピールしすぎて嫌われるだとか、スコアを評価する側の人がその人のことを過大評価して後からがっかりするとか、その程度しか思い浮かばなかったので、まあよしとしよう。)

 

企業が求める人材と、TOEICで測れる資質にズレがあるということは、(前回の記事でも触れたとおり)否めない。しかし海外の英語市場(韓国を除く)と比較して、日本だけがTOEICを未だに重視することには、それなりの理由があってもいいはずだ。考えられる理由としては、日本の伝統的な英語教育(おもに文法、読み、次点に聴き)を比較的しっかりとこなしていれば、TOEICのような読み聴きの基本的な力を測るテストでは、それなりの得点が取れるはずだから、というものがある。この理由ならば、「TOEICで高得点を取得するということは、少なくとも日本的な英語教育を真面目に受けてきたのだということの証明とみなせるため、評価されるべきである」という考え方は合理的である。

 

(追記:上の記述は間違いである。なぜなら、TOEICは集団基準準拠テストに分類されるので、いわば相対評価として、受験者全体から見た当該者の位置づけを、統計的に推理しているだけだからだ。運転免許試験のような目的基準準拠テストとは異なり、習得した技能を絶対的に測定するものではない。たとえば運転免許試験に合格することは、駐車や坂道発進などの技能を当然のように習得していることを意味する。しかしながら、仮にTOEIC 900を取得したとしても、それは基本的な言語能力があることを担保しているわけではなく、偏差値が高いというだけである。)

 

とにかく、スコアは高ければ高いほどよい、ということは確認できた。ではスコアが高いと「何が良い」と言えるのだろうか。高得点だからといって、一概に「英語力」があるとはいえないだろうが、なにかしらが良いために高得点になるはずである。そして、その「なにかしら」とは何なのか。TOEICを評価する立場にある人は、そこを評価の基準とすべきではないか。それこそ、今回の記事が扱うテーマである。

 

前回も言ったように、TOEICテストだけでは、総合的な英語力を計測することはできない。TOEICで推し量ることができる「英語力」は、リスニング分野においては、初歩的な日常会話の聞き取りと発言の意図を最低限理解するスキルくらいで、リーディング分野においては、基本的な文法の力と、英語で書かれた情報の中から素早く必要なものを抜き取る能力くらいだと思う。(このテストはマークシート式なので、リスニングで聞こえた単語が書かれている選択肢を、なんとなく選んだら正解だった、ということもよくある。運も相当に絡んでくるため、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるんだと言われても真っ向から否定はできない。)

 

リーディング分野で使われる語彙も、受験英語の観点からいえばかなり初歩的なものが多い。アカデミックな長文を読んで、「文脈から単語の意味を推測しながら、筋が通ったストーリーをアタマで再構成する能力」を測るTOEFL ITPなどとは、また評価基準が違ってくる。やさしい問題を素早く正確に解く能力が要求されるTOEICと、難しい長文を腰を据えて解くタイプのTOEFL。前者ではスコアの算出に「等化」という統計的手法が用いられるため相対評価となるが、後者は絶対的な尺度としてのスコアが算出されるため、測定される「英語力」の純度はTOEICよりも高いと言えるかもしれない。

 

結局、「英語力を測る」と一言で言っても、どんな項目を計測したいかという目的によって、最適化されたテストは違うのだ。本来は、総合力な英語力を計測するために、それらのテストを組み合わせて多面的な評価をするのが望ましいが、それについての論議は今回割愛する。

 

タイトルで「褒めちぎる」とはいったものの、なんだか話が逸れてしまった。TOEICのスコアの良し悪しでどんな点を評価の対象にすべきか、すなわち「TOEICでどんなスキルが測定できるか」に焦点を戻したい。まず、リスニング・リーディング共に、テストを受けているときに私がとても実感したことがある。それは、「このテスト疲れるなあ」と感じる瞬間があることと、それを感じるとき、人間の集中力は切れているということだ。集中力が切れていると、リスニングで問題文を聞き逃したり、リーディングで文章の上を滑って内容がアタマに入ってこなかったりする。

 

だから、いかに集中力を持続できるかは、かなり得点に良し悪しに関わってくると思う。特にリーディングセクションでは、与えられた時間(60分)に比べて問題数(100問)がけっこう多いため、集中力を切らさずにさっとやり切ることが、高得点につながりやすい。だから少なくとも、時間を効率的に使うタイムマネジメント能力がある、ということも言えるのではないか。

 

リーディング・リスニング共に、TOEICテストのとき脳でどのような働きが起きているかを書き起こしてみると、次のような感じだと思う。まず、記号の羅列(英文・選択肢)を情報源とし、それを使ってアタマで文脈(ストーリー)を組み立てテンポラリーに記憶する。次に、すでに与えられている問いの解答に必要な、根拠となる情報を探すため、記号群の中から見当をつけ、それを記憶する。最後に、意味内容を抽象化する操作によって両者を一致させることで、解答を選ぶ。(リーディングにおいては、もしエラーが生じた場合、ストーリーを再構築し、同様の動作を行う)。これを連続して、早く正確に履行する。

 

なんだか長ったらしくなったが、しかしこのように考えると、TOEIC高得点に必要なスキルは、実は「英語力」以外にもあることが見えてくる。それは、一般的な言葉で言えば、集中力・想像力・記憶力といったものであるはずだ。(実際のところ、2時間ぶっ通しのテストで、リスニングはメモ禁止、リーディングは大量の問題となると、これらの能力が問われるのも当然だろう。)もちろん、英語の語彙や英文への免疫力は重要な役割を果たすが、その基礎の上に前述のような能力があってこそ、高得点につながるのだと思う。

 

ここで少し視点を変えるため、この記事を引用したい。「残念な人の英語勉強法」(山崎将志、Dean R. Rogers著)によると、ネイティブの男女24人がTOEICテストを受けたときの平均点は958点だった。彼らのうち、200問全問正解した人はいなかったという。

 

ネイティブであるにもかかわらず、なぜ全問正解できないのか?

著者の分析は以下の2点。

(1)途中で集中力が途切れてしまう

(2)問題を読むスピードが求められる(読むスピードが遅いネイティブは時間内で全問解答することができず、最後の方で慌てて答えを出さなくてはいけなかった)

 

特に正解率が低かったのは、リスニングでの詳細情報を問う問題。細かい内容になるので、設問を先読みし、該当部分を聞き逃さないようにする必要がある。これは、ネイティブでも不正解する可能性があるだろう。

もうひとつは文法問題。「ネイティブにとっても文法的に正しいか間違っているかが曖昧になっている」ところがあるというのだ。日本語の「ら抜き言葉」や「全然大丈夫」といった慣用的間違いに似ている、と著者は述べている。

 

英語力には問題のないはずのネイティブが、TOEICで得点を落とす問題とその理由にこそ、ノンネイティブが英語力を補って高得点を取ることができる秘訣があるのではないかと思う。この記事を読む限り、問題を「先読み」してストーリーを組み立てる想像力や、該当部分を逃さないために何が問われているかを覚えている記憶力、そして問題を最後までコンスタントにやり遂げる集中力は、やはり高得点の鍵なのではないかと思う。

 

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(追記)

 

ちなみにTOEICには、このようにコミュニケーション能力との相関関係が一応定められているらしい。だからといって、TOEICで高得点ならば必然的にコミュニケーション能力が高いと考えるのは早計だ。なぜならこの基準を作成しているETSは、米国の非営利テスト開発機関だからである。というのも、米国においてこの基準が設定されているということは、当然日本の(世界的に見れば特殊な)英語教育の方法を吟味して、コミュニケーション能力との相関が示されているわけではないからである。

 

たとえば、初等教育からの授業をすべて英語で行い、ディスカッションも英語のみで行うなど、双方向型の授業スタイルが一般的な国の教育を受けた人々がTOEICを受けたとする。すると、(正確な文法やリーディングに力を入れている)日本型教育を受けた人々に比べ、スコアが低く留まることが予想できる。なぜなら、TOEICは双方向型のコミュニケーションを測るというより、リスニング・リーディング等の基本的なスキルを計測するという性質が強いためである。

 

以上のことから、伝統的な日本型の英語教育を受けた人々に対して、引用元で示されているようなTOEICスコアとコミュニケーション能力との相関を適用することは難しいのではないかと思う。