イチローは努力をしていない、強くもない

先日NHKで、「プロフェッショナル、仕事の流儀」を見たが、その時はたまたまイチローが特集されていた。

 

イチローといえば、努力の人というイメージか、むしろあまりに野球が好きだから、努力を努力と思わない人、という印象だった。観終ったあと、そういう印象はあきらかに間違っていたのだと思った。

 

インタビューを見ていても、イチローは決して饒舌ではない。彼が言い表したいことすべてが、正確に秩序建てて組み立てられている、という感じはしない。むしろ、必死にことばを探している。彼の言葉ひとつひとつには、たしかな手応え、重みを感じる。なぜかと言えば、そもそも言葉というものは、人がなにか物事を伝えようとするとき用いる手段のひとつの側面でしかないのだ。イチローは彼の野球―プレイスタイル―によって、言葉より多くを語る。だから、一つの言葉が彼の口から生まれたとしたなら、それは膨大な練習量と、輝かしい実績に裏打ちされている。プロの説得力というのは、言葉そのものではなく、彼が背負ってきたものの重さに比例するのだ。

 

1,同じことを、欠かさずやり続けるのが「努力」

 

彼は、世間一般で言われる「努力」ということばについて語った。イチロー自身が自分のしたことを「努力」と認める例は極めて少ない。試合に出れるチャンスがどれだけ少なくとも、彼は試合前の精密な練習を決して欠かさなかった。活躍の場がないと分かっているのに、それでもなお万全の準備で望まなければいけない。そういう使命を己に課すことが、どんなに辛く苦しく、孤独な葛藤との闘いであるのは、おそらく彼にしかわからないと思う。

 

いっそのこと全部やめることができたなら、楽になれるとも思った。それでも、もしやめてしまったら、今までコツコツ積み上げてきた自分を否定することになる。それだけは、絶対にしたくなかった。それは決して惰性ではなく、矜持であり、なによりも、とことんまで貫き通さねばならない意地であった。

 

そうやって愚直に、ひたすらに準備と向き合ってきた行為は、「努力」といってもいい。イチローの考えるこの言葉の本当の意味は、どれほど重い責任とプレッシャーを積み重ねて、研鑽されてきたのだろうか。

 

ルーティンをこなすこと。たとえ置かれた環境が目も当てられないものであろうとも、周囲の評価がどんなに苦いものであったとしても、そして、どれだけ失敗の苦痛を積み重ねることになろうとも。イチローが唯一努力と認めるのは、このただ一点においてのみである。

 

2, 真の「強さ」とは、受け流すこと

 

彼は「強さ」についても言及している。世間の人はしばしば、自分のことを「強い人」と評する。しかし自身に関して言えば、そんな風に思ったことなど一度もない。自分は弱い人間である。本当に強い人間は、自分の弱さなど意に介さない。他人の評判だって、全く気にかける素振りを見せない。どんなに風当たりが強くても、飄々と何事もなく受け流せる。それがイチローの考える本当の「強さ」である。

 

だから彼自身は、自分のことを弱いと評価する。向かい風が強くても、何事もないかのように歩き続けるなど、自分にはできない。むしろ、前のめりになりながら歯を食いしばって歩を早めようとするのが自分なのだ。弱さを認め、しかしそれと必死で向き合い、超克しようと試み続けるのが自分なのだ。そういう態度を「強さ」と見る人も、もしかしたらいるかもしれない。しかし自分は、やはり弱いと思う。自分の強さを認めた時点で、前進は止まる。

 

3、プロは、無邪気ではありえない

 

彼は、自身のドラフト会見を振り返り、このように語っている。「あの頃は、バッティングについて訊ねられて、『めちゃめちゃ楽しい』と言っていた。子供が草野球をするのと、なんら変わらない無邪気さだった。しかし、4000本のヒットを打った今では、楽しいとは思わない。プロとしてまだ一本もヒットを打っていない自分が、バッティングをめちゃめちゃ楽しいと語っていて、今は楽しくないと言っている。なぜかといえば、その達成の裏には、8000回の失敗があって、屈辱がある。そういう途轍もない数の失敗を刻み込んでいって、痛みを十分過ぎるほど知って、無邪気さを失った。でも、それが『プロになる』ということだと思う。」

 

楽しいから続ける、というのは誰にでもできることだ。楽しくなくても、やらなければいけない、続けなくてはいけない。そういう意識を持ったとき、きっとなにかが変わり始める。終わりが見えなくても、投げ出しそうになっても、それでも必死に守って、育んでゆかなければならない。

 

無邪気ではありえない責任と使命を負ったとき、人は初めてプロになれる。