「人財」の罪

最近、「人財」という言葉をよく目にするようになった。

 

従来の「人材」では、社員を会社の材料とみなしているようでイメージが悪いということで、宝を意味する「財」の字のほうが用いられるケースが多くなってきているようだ。

 

企業は自社のパンフレットやホームページ上で、「私たちは従業員一人ひとりを、かけがえのない『人財』とみなし、大切にします」などと謳うことが多くなってきた。これを良い傾向と見るか否かは、人によりけりだろうが、私はこの言葉に違和感を感じざるを得ない。

 

そもそも社員は本当に、「宝」といえるのだろうか?

 

私のイメージする「宝」は、「家宝」とか「国宝」に近い感じだ。つまり、由緒正しいお国柄、家柄を象徴する遺産。エントロピーの増大からなんとしても守り抜き、次世代へとそのままの形で受け継いでいくもの。

 

私が感じる違和感は、「たから」という言葉につきまとう、上のような「厳重に守るべきもの、実用性を度外視し、そのままの形での保存に専念すべきもの」といった印象からくるものかもしれない。

 

「宝の持ち腐れ」ということわざもあるが、その意味するところは、「どんなに価値のある宝を所有していたところで、所有しているだけで有効に使わないのでは、それは持っていないのも同然だ」ということだろう。「人財」という言葉からは、まさにこんな感じを受けた。

 

社員というのは、鍵をかけて倉庫の奥で守られる存在ではなく、最前線において彼の才能を発揮してこそ、一人ひとりが「たから」だといえよう。いわゆる人材は、英語ではhuman resouceという。これを「資源」とみなして、代替可能だとする見方もあるが、私はあえて「源(みなもと)」という意味に取りたいと思う。

 

社員は、企業の材料でも宝でもなく、企業を通して世の中に生み出す価値の「源泉」であり、その大元になっているのは、社員の才能である。そういうふうに考えた私が今後企業に提唱したいのは、「人財」に代わって、「人才」という言葉を導入することだ。

 

企業は、社員を道具のように働かせる王でもなければ、宝を保存する正倉院でもない。社員の才能を存分に発揮するために最適化されたプラットフォーム、それこそ企業の理想のあり方だと思う。

 

まずは、陳腐化した看板を下ろして、その企業だけの「言葉」を創造してはどうか。