ある就活生は「面接官は馬鹿である」と言う

昨日、某損保(東京会場)の三次面談を受けてきた。結論から言えば、次のステップには進めなかった。しかし、面接官と相性が合わなかった、ご縁がなかったという非生産的な理由で片付けてしまう気はさらさら無い。観察して得られた認識を、教訓としてまとめておきたいと思う。(※この文章には、面接弱者として多少のルサンチマンが混入している可能性がある。)

 

はじめに私自身の反省を述べておきたい。質問されることが予想できたのにかかわらず、「コンピテンシー面接」と称する面接において、小学校から現在にかけての一貫したストーリーや行動の合理的理由(特に小学校→中学校にかけて)が語れなかったことは、大いに反省に値する点である。事実如何を問わず、これはきちんと「対策」をしておく必要があった。

 

面接対策を軽視する諸兄もいるだろう。「嘘はつきたくない」、「それでは本当の自分を判断してもらえないのではないか」、「内定を得て入社したとしても、ミスマッチが生じるのではないか」といったような批判があるのは予想している。だが私の言う「対策」とは、自らの虚像を作る行為、すなわち無から有を作り出す行為では決してない。それは何よりも、過去の自分に対する「誠意」であり、面接担当者への「おもてなし」である。

 

面接担当の立場に立てば、判断材料は目の前にいる学生の「発言」に頼るところが大きく、したがって面接の場で「発言」されない事実や思考は彼らにとって無きに等しいのだ。たとえ過去の自分がどんなに素晴らしかったとしても、それが面接担当者に伝わらなければ、単なる偶像でしかありえない。反対に、過去どんなにみすぼらしい人生を歩んできたのだとしても、その尻拭いをして自分を救済してあげられるのは、現在のあなたしかいない。どちらにせよ、自分の人生を真っ向から肯定し、過去のすべての自分に意味を与える行為。それこそが私の言う「対策」であり、自分に対する誠意の在り方だと思うのだ。

 

また同時にそれは、面接担当者のための気遣い、すなわち「おもてなし」でもある。彼らにしてみても、学生が対策をしてきてくれた方が、要領を得た回答が返ってくる期待値は高まる。ひとつの問いに対して回答の要点を掴みやすいならば、その集積として様々な角度からの質問を重ねる時間の余裕が生じる。質問のパターンが多くなるほど、「どんな人間なのか」を判断する材料が増えることを意味するので、ミスマッチを軽減することにもつながる。

 

面接担当者は神ではないので、学生の「人となり」をたかだか30分程度で判断することなど到底不可能だ。フランスの哲学者ロラン・バルトは自身の著書で、「神話はものごとに、説明の明晰さではなく確認の明晰さを与える」と言っている。面接担当者は「目の前の学生は究極的にはどのような人間なのか」という真理を追求したいわけではない。彼らは自らの判断に、確認の明晰さを与えたいのだ。そのための根拠となるのは、面接で得られた「アンケート結果」だけだ。これには、採用関係者の間で共有可能であるという前提がある。彼らが求めているものは、他者に伝達可能な捨象された「あなた像」でしかなく、あなたという存在の包括的理解など到底成し得ない。

 

どんな人材を採用するのか、あるいは過去に採用したのかという基準は、社内で共有可能なものでなければならない。学生の資質を論理立てて上司に報告することも、人事部内で共有することもできなければ、面接担当者の責任は過大なものになってしまう。だから学生が、「自分のありのままを話せば、適切な判断を下してくれる」と面接担当者に期待するのは土台無理な話なのであり、要するに学生の態度としては、企業に採用するか否かを委ねるのではなく、採用根拠をきちんと与えなければならないということになる。もちろんそれには、具体的事実が伴っていなければ、共有可能な評価にならないことには留意しておきたい。

 

私は、「面接担当者は馬鹿である」と思った方がいいと考えている。これは溜飲を下げる目的の悪口にしか聞こえないが、ある意味においてこの認識は有効である。要するに、彼らは赤子同然なのだ。子どもは周囲の世界と触れ合った経験が相対的に少ない。子どもが世界を認識するツールは、親の語りかけ・語った内容に大きく依存している。親が子どもに対して話したことこそが、その子どもが見ている世界を言葉で区切り、色を付け、分類し、理解するベースになるのだ。子どもは知能指数という観点では馬鹿であるにもかかわらず、私たちは子どもを「馬鹿にする」わけではない。むしろ丁寧に、誠実に物事を教えようとするはずだ。

 

同様に面接担当者は、私という存在を理解するにはまだ「子ども」すぎるし、一つひとつの断片的な質問への回答から、学生の人となりを総合的に類推することができない程度には馬鹿である。だからこそ学生は、そんな面接担当者にもわかるように、自分という世界を言葉で表現しなくてはならない。あなたの発言をベースにして、面接担当者は「あなた」という世界観を作り上げるからだ。しかしそれは決してあなたではない。あくまで面接担当者が捉える「あなた像」と「自分」は異なるというのが大前提だ。

 

つまるところ、内定を出すか・出さないか。その判断の材料になるのは、「人間性」や「行動特性」、「性格」など全人格的な要素の集合体としての「あなた」ではなくて、「応募書類の内容と面接での言動」のみだ。そこにしか、自分は表現されない。それを誤解してはならない。「人物重視」を謳う面接のこのような実態が、学生にとってひどく歪んだ形で認識される場合には、「就活自殺」にもつながりかねない危険な考え方を招く。このことを企業・学生双方きちんと認識しておくべきだろうし、企業はあらかじめ「対策」をしてくることを学生に推奨すべきだ。

 

企業側は、「私たちは面接の場でしかあなた方を判断できないので、私たちが採用判断に用いる材料として、一貫した『人物像』を作ってきて下さい」とはっきり言明すべきなのだ。企業の採用担当は、「私たちは、学生の経験の華やかさではなく、どんな人物かを丁寧に判断します」などと決してのたまってはならない。その傲慢な認識は、企業と学生双方にとって不幸な結末を招く。採用面接という限られた時間で「人を判断する」ことの限界をきちんと提示すべきだ。

 

社会人への手紙

最近よく考えることなんですが、みなさんは就活のとき、あるいは社会人になってから「人が働く意味・理由」について意識されたことはありますか?
 
 
昔に比べて現代では、仕事をする意味が単に家族を養ったり社会的な成功を収める以外での文脈で語られることが多くなっていると思います。
 
 
先日の成人式では、ニュースで頻繁に「さとり世代」という言葉が登場したように、現代の若者は「お金や名誉といったものを得るため」という理由で働くことには懐疑的で、中には働くことそれ自体に疑問を呈し、ニートを選択する若者も増えています。
 
 
僕は社会人の方とお会いできる機会があると、「働くとはなにか」、「なんのために働くか」、「働くことは義務であるか(憲法によらず)」、といったような、おそらく抽象的すぎて答えづらいであろうと思うことを、僭越ながらご質問させていただくこともあるのですが、それに対する答えの傾向としては、「仕事にはこういうやりがいがある」というものや、「社会人になってみれば自ずとわかるから、今は目の前のことに集中しなさい」というメッセージが背後にあるものが多い気がします。
 
 
しかし、労働というものの「本来の」意味について、突き詰めて考えていくということは、これは社会人になってからではむしろ難しいのではないかと思ったので、就活というまたとない時期を、よいきっかけだと捉えて考えるようにしています。
 
 
(余談ですが僕自身の考えからいうと、「労働」というものを文化人類学的に、「価値の贈与・交換」と捉えると社会に対するいわゆる「恩返し」と言われるようなことを説明するのに適していると思うので、この周辺の概念を巻き込みながら納得を形成していけたらいいと考えています。)
 
 
こういうことを考えて何か現実に役立つのか、無意味ではないかと思われる方もおそらく少なからずいらっしゃるでしょう。でも僕は自らが「よく生きる」ためには、まず自分のする行動の意味を不断に問い続ける必要があると思いますし、先述したような若者が増えているのも、労働の「意味付け」という行為が蔑ろにされてきた一つの帰結だとも考えています。
 
 
はたして仕事は義務でしょうか。だとしたらそれはなぜでしょうか。みんなが仕事をしなかったら社会が成立しないからですか? マクロ(社会全体)かミクロ(個人)か、ショートターム(目先)かロングターム(将来)かによっても、この答えは変わってくると思います。
 
 
みなさんの仕事に対する考え、教えてください。

TOEICをなんとか褒めちぎってみる

前回、TOEICは「評価されないべき」という記事を書いたが、それでも評価されるべきだとしたら、どんな点において評価すべきか、ということについて触れてみたい。

 

まず当然のことだが、TOEICは解答ミスを減点しない方式を採用しているため、スコアは低いよりは高いほうが良いし、高ければ高いほど良いと言える。730点のほうが600点よりも良いに決まっているし、ましてや990点などは最高評価されるべきである。 (ちなみにスコアが高くてダメな理由を探してみたが、高得点保持者はそれに過度に依存してしまい、そのことをアピールしすぎて嫌われるだとか、スコアを評価する側の人がその人のことを過大評価して後からがっかりするとか、その程度しか思い浮かばなかったので、まあよしとしよう。)

 

企業が求める人材と、TOEICで測れる資質にズレがあるということは、(前回の記事でも触れたとおり)否めない。しかし海外の英語市場(韓国を除く)と比較して、日本だけがTOEICを未だに重視することには、それなりの理由があってもいいはずだ。考えられる理由としては、日本の伝統的な英語教育(おもに文法、読み、次点に聴き)を比較的しっかりとこなしていれば、TOEICのような読み聴きの基本的な力を測るテストでは、それなりの得点が取れるはずだから、というものがある。この理由ならば、「TOEICで高得点を取得するということは、少なくとも日本的な英語教育を真面目に受けてきたのだということの証明とみなせるため、評価されるべきである」という考え方は合理的である。

 

(追記:上の記述は間違いである。なぜなら、TOEICは集団基準準拠テストに分類されるので、いわば相対評価として、受験者全体から見た当該者の位置づけを、統計的に推理しているだけだからだ。運転免許試験のような目的基準準拠テストとは異なり、習得した技能を絶対的に測定するものではない。たとえば運転免許試験に合格することは、駐車や坂道発進などの技能を当然のように習得していることを意味する。しかしながら、仮にTOEIC 900を取得したとしても、それは基本的な言語能力があることを担保しているわけではなく、偏差値が高いというだけである。)

 

とにかく、スコアは高ければ高いほどよい、ということは確認できた。ではスコアが高いと「何が良い」と言えるのだろうか。高得点だからといって、一概に「英語力」があるとはいえないだろうが、なにかしらが良いために高得点になるはずである。そして、その「なにかしら」とは何なのか。TOEICを評価する立場にある人は、そこを評価の基準とすべきではないか。それこそ、今回の記事が扱うテーマである。

 

前回も言ったように、TOEICテストだけでは、総合的な英語力を計測することはできない。TOEICで推し量ることができる「英語力」は、リスニング分野においては、初歩的な日常会話の聞き取りと発言の意図を最低限理解するスキルくらいで、リーディング分野においては、基本的な文法の力と、英語で書かれた情報の中から素早く必要なものを抜き取る能力くらいだと思う。(このテストはマークシート式なので、リスニングで聞こえた単語が書かれている選択肢を、なんとなく選んだら正解だった、ということもよくある。運も相当に絡んでくるため、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるんだと言われても真っ向から否定はできない。)

 

リーディング分野で使われる語彙も、受験英語の観点からいえばかなり初歩的なものが多い。アカデミックな長文を読んで、「文脈から単語の意味を推測しながら、筋が通ったストーリーをアタマで再構成する能力」を測るTOEFL ITPなどとは、また評価基準が違ってくる。やさしい問題を素早く正確に解く能力が要求されるTOEICと、難しい長文を腰を据えて解くタイプのTOEFL。前者ではスコアの算出に「等化」という統計的手法が用いられるため相対評価となるが、後者は絶対的な尺度としてのスコアが算出されるため、測定される「英語力」の純度はTOEICよりも高いと言えるかもしれない。

 

結局、「英語力を測る」と一言で言っても、どんな項目を計測したいかという目的によって、最適化されたテストは違うのだ。本来は、総合力な英語力を計測するために、それらのテストを組み合わせて多面的な評価をするのが望ましいが、それについての論議は今回割愛する。

 

タイトルで「褒めちぎる」とはいったものの、なんだか話が逸れてしまった。TOEICのスコアの良し悪しでどんな点を評価の対象にすべきか、すなわち「TOEICでどんなスキルが測定できるか」に焦点を戻したい。まず、リスニング・リーディング共に、テストを受けているときに私がとても実感したことがある。それは、「このテスト疲れるなあ」と感じる瞬間があることと、それを感じるとき、人間の集中力は切れているということだ。集中力が切れていると、リスニングで問題文を聞き逃したり、リーディングで文章の上を滑って内容がアタマに入ってこなかったりする。

 

だから、いかに集中力を持続できるかは、かなり得点に良し悪しに関わってくると思う。特にリーディングセクションでは、与えられた時間(60分)に比べて問題数(100問)がけっこう多いため、集中力を切らさずにさっとやり切ることが、高得点につながりやすい。だから少なくとも、時間を効率的に使うタイムマネジメント能力がある、ということも言えるのではないか。

 

リーディング・リスニング共に、TOEICテストのとき脳でどのような働きが起きているかを書き起こしてみると、次のような感じだと思う。まず、記号の羅列(英文・選択肢)を情報源とし、それを使ってアタマで文脈(ストーリー)を組み立てテンポラリーに記憶する。次に、すでに与えられている問いの解答に必要な、根拠となる情報を探すため、記号群の中から見当をつけ、それを記憶する。最後に、意味内容を抽象化する操作によって両者を一致させることで、解答を選ぶ。(リーディングにおいては、もしエラーが生じた場合、ストーリーを再構築し、同様の動作を行う)。これを連続して、早く正確に履行する。

 

なんだか長ったらしくなったが、しかしこのように考えると、TOEIC高得点に必要なスキルは、実は「英語力」以外にもあることが見えてくる。それは、一般的な言葉で言えば、集中力・想像力・記憶力といったものであるはずだ。(実際のところ、2時間ぶっ通しのテストで、リスニングはメモ禁止、リーディングは大量の問題となると、これらの能力が問われるのも当然だろう。)もちろん、英語の語彙や英文への免疫力は重要な役割を果たすが、その基礎の上に前述のような能力があってこそ、高得点につながるのだと思う。

 

ここで少し視点を変えるため、この記事を引用したい。「残念な人の英語勉強法」(山崎将志、Dean R. Rogers著)によると、ネイティブの男女24人がTOEICテストを受けたときの平均点は958点だった。彼らのうち、200問全問正解した人はいなかったという。

 

ネイティブであるにもかかわらず、なぜ全問正解できないのか?

著者の分析は以下の2点。

(1)途中で集中力が途切れてしまう

(2)問題を読むスピードが求められる(読むスピードが遅いネイティブは時間内で全問解答することができず、最後の方で慌てて答えを出さなくてはいけなかった)

 

特に正解率が低かったのは、リスニングでの詳細情報を問う問題。細かい内容になるので、設問を先読みし、該当部分を聞き逃さないようにする必要がある。これは、ネイティブでも不正解する可能性があるだろう。

もうひとつは文法問題。「ネイティブにとっても文法的に正しいか間違っているかが曖昧になっている」ところがあるというのだ。日本語の「ら抜き言葉」や「全然大丈夫」といった慣用的間違いに似ている、と著者は述べている。

 

英語力には問題のないはずのネイティブが、TOEICで得点を落とす問題とその理由にこそ、ノンネイティブが英語力を補って高得点を取ることができる秘訣があるのではないかと思う。この記事を読む限り、問題を「先読み」してストーリーを組み立てる想像力や、該当部分を逃さないために何が問われているかを覚えている記憶力、そして問題を最後までコンスタントにやり遂げる集中力は、やはり高得点の鍵なのではないかと思う。

 

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(追記)

 

ちなみにTOEICには、このようにコミュニケーション能力との相関関係が一応定められているらしい。だからといって、TOEICで高得点ならば必然的にコミュニケーション能力が高いと考えるのは早計だ。なぜならこの基準を作成しているETSは、米国の非営利テスト開発機関だからである。というのも、米国においてこの基準が設定されているということは、当然日本の(世界的に見れば特殊な)英語教育の方法を吟味して、コミュニケーション能力との相関が示されているわけではないからである。

 

たとえば、初等教育からの授業をすべて英語で行い、ディスカッションも英語のみで行うなど、双方向型の授業スタイルが一般的な国の教育を受けた人々がTOEICを受けたとする。すると、(正確な文法やリーディングに力を入れている)日本型教育を受けた人々に比べ、スコアが低く留まることが予想できる。なぜなら、TOEICは双方向型のコミュニケーションを測るというより、リスニング・リーディング等の基本的なスキルを計測するという性質が強いためである。

 

以上のことから、伝統的な日本型の英語教育を受けた人々に対して、引用元で示されているようなTOEICスコアとコミュニケーション能力との相関を適用することは難しいのではないかと思う。

TOEICは「評価されないべき」

先日行われたTOEICの結果が出ていた。listeningが465点、readingが475点だった。大学3年になったとき、団体でタダ受験したIPテストは830点だったので、この9ヶ月くらいでスコアが上昇したと言えばそうなのだが、どうも納得がいかない。

 

というのも、私は大学2年次と3年次、それぞれカナダとドイツに一ヶ月ずつ短期留学に行ったのだが、そこではアウトプットのスキルに関しては言うまでもなく、先生の話を聞いたり、他の生徒の主張を理解するなど、インプット(とくにリスニング)に関しても、「周りのレベルについていけない、情けない」と思うことのほうが断然多かったため、その実感とスコアとが乖離しているように思えてならないからだ。

 

世間一般では、「TOEIC900点を3週間で達成する方法!」など、TOEIC関連本の市場規模は衰えを知らないことから、TOEIC高得点(やはり900点以上?)は一種の社会的なステータスになっていて、その保持者は多くの企業で崇められている。しかし、そのスコアが保持者の実力を、これほどまでに反映していないテストは、TOEICの他には私は知らない。

 

私自身、940点という高得点を取得したことは、とても疑問に思う。なぜ自分がこんなに高い得点を出すことができたのか、という意味ではない。なぜ私のような人間があっさり取れてしまうような点数が、「高得点」という区分けに入るのか、という意味である。ここに、TOEICを世界に通用する「英語力」とみなすことに対する、疑問が残る。

 

TOEICは英語力の実態を表していないというのは、私の実感であるが、これは真実からはそうかけ離れた推論ではないと思う。なぜなら、私のいた語学学校のネイティブの先生や他国の生徒は、TOEICを受験することにあまり価値はないとみなしていたからだ。世界の英語市場でみれば、日本と韓国しか重視していないマイナー資格である。その事実だけで、TOEICが「世界で通用する英語力の証明」でないことはわかる。反対に、世界で通用する英語力を証明したければ、IELTSやケンブリッジ、留学の要件になっているTOEFL-IBTなど、より目的に適ったテストが存在する。国際的にみればそういう事情がある中で、あえてTOEICを受験する必要などないのではないか。

 

結局のところTOEICテストというのは、日本の「村社会」的な性格をよく表している。日本の「グローバル化」が、世界の潮流から外れたところに重きを置いていることを感じている人も少なからずいるだろう。しかしながら、例えば就活の資格欄や、昇格の要件として、実際問題、TOEICの点数が評価の一部として用いられる事情は存在しているし、これからもあまりその傾向に大きな変化はないかもしれない。したがって、「TOEICが重宝される意味はない」と言い切り、テストをまったく受験しない人物は、良い企業に入れない、良い職に就けないなどの可能性がある点で、TOEICを重視する社会の仕組み自体に問題があるのではないか。

 

現在の「TOEIC高得点めざせ」に多く見られるように、小手先だけのスコアアップに留まるのではなく、もっとプラクティカルな英語を身につけさせるためには、まず企業の方から率先して「ウチの会社はTOEICでは評価しません。その代わり、上記のようなテストの成績は、それなりに尊重しますよ」と宣言すべきなのではないか。そしてそれに追従し、多くの大企業がTOEIC重視の傾向から脱すれば、中小企業にもこのムーブメントは広がっていく。まず先陣きって改革を行う勇気ある企業が、今の時代に求められていると思う。

 

***

(追記)

 

かといって、前述のとおり、いまだTOEICというのは就活での花形資格であり、企業内での尊敬の対象である。だから、どうやったら高得点を取れるのかという話も、ちょっとばかりしておきたい。

 

まず、自力で800点ぐらいは取れる人でないと、900点を超えるのは難しい。「自力」でというのは、「地力」とした方が良いかもしれないが、この言葉の意味するところは、「いわゆる「TOEIC対策」というものを全くしないで」ということである。よくあるように、問題の傾向分析して、リスニングで数字が出てきたら要チェック、あるいは選択肢の偏りを意識せよ、などなど、そういう小手先のテクニックを学んでようやく800点ほどの人では、そこからの上昇はあまり期待できない。もしそういう方法で高得点を取れたとしても、その能力は実生活で生かされることはないだろう。TOEICは何度も受験でき、スコアは2年間有効なので、何回か受験する中でたまたま高得点が出ることはあるが、それこそ下手な鉄砲が数打って当たっただけの話である。

 

高得点を取るためにもっとも重要だと私が考えることは、「落ち着いて集中する」ことである。なんだ精神論じゃないか、とがっかりしないでいただきたい。これこそ、解答のテクニックよりもいかなる戦略よりも何よりも大事なことなのだと思う。目的達成のために必要なのは、①焦らないこと、②没頭すること、この二点だけなのだ。そしてこの条件(特に①の条件)を満たすためには、まず肩慣らしとして受験し、それなりの点数をとっていることが望ましい。だから上記のように、地力で800点くらいは取れることが前提なのである。

 

焦らずに解答するためには、ある程度の自信が求められるし、さらに集中してやるためには、問題を解くのを楽しむ姿勢というのもけっこう重要なのではないかと思う。リーディングセクションに関しては、解くペースは個人の裁量で決めることができるため、私の場合は「スピード感」を常に念頭に置いて解き、まわりの人たちと競争している感覚で楽しんで取り組んだため、ページ内の問題を終了して用紙をめくる瞬間というのは、なかなか充実感にあふれていた。

 

このように余裕と自信を持っていることが、すなわち集中と没頭につながり、良い結果として反映される。それが、私のTOEIC受験セオリーである。

イチローは努力をしていない、強くもない

先日NHKで、「プロフェッショナル、仕事の流儀」を見たが、その時はたまたまイチローが特集されていた。

 

イチローといえば、努力の人というイメージか、むしろあまりに野球が好きだから、努力を努力と思わない人、という印象だった。観終ったあと、そういう印象はあきらかに間違っていたのだと思った。

 

インタビューを見ていても、イチローは決して饒舌ではない。彼が言い表したいことすべてが、正確に秩序建てて組み立てられている、という感じはしない。むしろ、必死にことばを探している。彼の言葉ひとつひとつには、たしかな手応え、重みを感じる。なぜかと言えば、そもそも言葉というものは、人がなにか物事を伝えようとするとき用いる手段のひとつの側面でしかないのだ。イチローは彼の野球―プレイスタイル―によって、言葉より多くを語る。だから、一つの言葉が彼の口から生まれたとしたなら、それは膨大な練習量と、輝かしい実績に裏打ちされている。プロの説得力というのは、言葉そのものではなく、彼が背負ってきたものの重さに比例するのだ。

 

1,同じことを、欠かさずやり続けるのが「努力」

 

彼は、世間一般で言われる「努力」ということばについて語った。イチロー自身が自分のしたことを「努力」と認める例は極めて少ない。試合に出れるチャンスがどれだけ少なくとも、彼は試合前の精密な練習を決して欠かさなかった。活躍の場がないと分かっているのに、それでもなお万全の準備で望まなければいけない。そういう使命を己に課すことが、どんなに辛く苦しく、孤独な葛藤との闘いであるのは、おそらく彼にしかわからないと思う。

 

いっそのこと全部やめることができたなら、楽になれるとも思った。それでも、もしやめてしまったら、今までコツコツ積み上げてきた自分を否定することになる。それだけは、絶対にしたくなかった。それは決して惰性ではなく、矜持であり、なによりも、とことんまで貫き通さねばならない意地であった。

 

そうやって愚直に、ひたすらに準備と向き合ってきた行為は、「努力」といってもいい。イチローの考えるこの言葉の本当の意味は、どれほど重い責任とプレッシャーを積み重ねて、研鑽されてきたのだろうか。

 

ルーティンをこなすこと。たとえ置かれた環境が目も当てられないものであろうとも、周囲の評価がどんなに苦いものであったとしても、そして、どれだけ失敗の苦痛を積み重ねることになろうとも。イチローが唯一努力と認めるのは、このただ一点においてのみである。

 

2, 真の「強さ」とは、受け流すこと

 

彼は「強さ」についても言及している。世間の人はしばしば、自分のことを「強い人」と評する。しかし自身に関して言えば、そんな風に思ったことなど一度もない。自分は弱い人間である。本当に強い人間は、自分の弱さなど意に介さない。他人の評判だって、全く気にかける素振りを見せない。どんなに風当たりが強くても、飄々と何事もなく受け流せる。それがイチローの考える本当の「強さ」である。

 

だから彼自身は、自分のことを弱いと評価する。向かい風が強くても、何事もないかのように歩き続けるなど、自分にはできない。むしろ、前のめりになりながら歯を食いしばって歩を早めようとするのが自分なのだ。弱さを認め、しかしそれと必死で向き合い、超克しようと試み続けるのが自分なのだ。そういう態度を「強さ」と見る人も、もしかしたらいるかもしれない。しかし自分は、やはり弱いと思う。自分の強さを認めた時点で、前進は止まる。

 

3、プロは、無邪気ではありえない

 

彼は、自身のドラフト会見を振り返り、このように語っている。「あの頃は、バッティングについて訊ねられて、『めちゃめちゃ楽しい』と言っていた。子供が草野球をするのと、なんら変わらない無邪気さだった。しかし、4000本のヒットを打った今では、楽しいとは思わない。プロとしてまだ一本もヒットを打っていない自分が、バッティングをめちゃめちゃ楽しいと語っていて、今は楽しくないと言っている。なぜかといえば、その達成の裏には、8000回の失敗があって、屈辱がある。そういう途轍もない数の失敗を刻み込んでいって、痛みを十分過ぎるほど知って、無邪気さを失った。でも、それが『プロになる』ということだと思う。」

 

楽しいから続ける、というのは誰にでもできることだ。楽しくなくても、やらなければいけない、続けなくてはいけない。そういう意識を持ったとき、きっとなにかが変わり始める。終わりが見えなくても、投げ出しそうになっても、それでも必死に守って、育んでゆかなければならない。

 

無邪気ではありえない責任と使命を負ったとき、人は初めてプロになれる。

「人財」の罪

最近、「人財」という言葉をよく目にするようになった。

 

従来の「人材」では、社員を会社の材料とみなしているようでイメージが悪いということで、宝を意味する「財」の字のほうが用いられるケースが多くなってきているようだ。

 

企業は自社のパンフレットやホームページ上で、「私たちは従業員一人ひとりを、かけがえのない『人財』とみなし、大切にします」などと謳うことが多くなってきた。これを良い傾向と見るか否かは、人によりけりだろうが、私はこの言葉に違和感を感じざるを得ない。

 

そもそも社員は本当に、「宝」といえるのだろうか?

 

私のイメージする「宝」は、「家宝」とか「国宝」に近い感じだ。つまり、由緒正しいお国柄、家柄を象徴する遺産。エントロピーの増大からなんとしても守り抜き、次世代へとそのままの形で受け継いでいくもの。

 

私が感じる違和感は、「たから」という言葉につきまとう、上のような「厳重に守るべきもの、実用性を度外視し、そのままの形での保存に専念すべきもの」といった印象からくるものかもしれない。

 

「宝の持ち腐れ」ということわざもあるが、その意味するところは、「どんなに価値のある宝を所有していたところで、所有しているだけで有効に使わないのでは、それは持っていないのも同然だ」ということだろう。「人財」という言葉からは、まさにこんな感じを受けた。

 

社員というのは、鍵をかけて倉庫の奥で守られる存在ではなく、最前線において彼の才能を発揮してこそ、一人ひとりが「たから」だといえよう。いわゆる人材は、英語ではhuman resouceという。これを「資源」とみなして、代替可能だとする見方もあるが、私はあえて「源(みなもと)」という意味に取りたいと思う。

 

社員は、企業の材料でも宝でもなく、企業を通して世の中に生み出す価値の「源泉」であり、その大元になっているのは、社員の才能である。そういうふうに考えた私が今後企業に提唱したいのは、「人財」に代わって、「人才」という言葉を導入することだ。

 

企業は、社員を道具のように働かせる王でもなければ、宝を保存する正倉院でもない。社員の才能を存分に発揮するために最適化されたプラットフォーム、それこそ企業の理想のあり方だと思う。

 

まずは、陳腐化した看板を下ろして、その企業だけの「言葉」を創造してはどうか。

就活生は、入社試験有料化に物申す

最近、ドワンゴが入社試験有料化を発表したことが、巷で議論を呼んでいる。就活生として思うところ(払いたくないわ!)があったので、ちょっと書いておこうと思ってはてなを立ち上げてしまった。以下のちきりん(敬称略)の記事を参考にしたい。
 
ちきりんの日記 ― 入社試験有料化の次に来る危険なワナ

 

まず、入社試験有料化のメリットとして挙げられているのは、主に下の3つだろう。
 
  1. 学生が真剣に企業選びをするようになる(ちきりんいわく、「自分のアタマで考える」ようになる)
  2. 企業の採用活動の経済的な負担が減るため、採用活動のクオリティが上がる
  3. 1と2より、採用のミスマッチが減って、お互いにとって利益になる

 

2については、もし導入するにしても、その用途を「採用活動」に限るルールが必要だろう。ちきりんのブログでは、「徴収した受験料で、大学名で足切りする代わりに、適正テストを全員分実施できる」という旨のことが書いてあるが、なんのことだがよくわからない。全員を一回受験させただけで、その人の適正が一発で判明するテストがこの世に存在するなら、その導入費用を企業が負担しなくていい(すなわちすべての企業が採用できる)ことはプラスに働くかもしれないが、現実にはそんなテストは存在しない。結局のところ、大学名での足切りと何ら変わることなく、そのテストの一定基準以下の学生を足切りすることになるだろうから、これは解決にならない。3は、1がうまく機能することが前提なので割愛する。

 

問題は1についてであるが、お金がかかるため学生が真剣に企業選びをするようになるというのは、当たり前のように見えて、実はそうでもない。ちきりんの記事では、大学受験料が年々高額になっていっても、大学進学率が増えているという事実から、入社試験に受験料を課しても、すなわち家庭の台所事情によって受験できる企業に格差が生じることはない、と主張している。しかし、この二つのまったく異なる市場を比較するのはずいぶん乱暴だと思う。

 

大学受験において、なぜ受験料が増加しても大学を受験する人が減らないかというと、そもそも受験というのは、それぞれの学校の入試問題を解くのに必要な対策をかなりの長時間強いられる性質がある。早稲田の政経が受けたい受験生と、一橋の商学部が第一志望の受験生では、求められる対策がかなり違ってくる。その点、就活の場合は、一番大きなアピール材料である「人柄」を臨機応変に変えなければならないということはまずない。また国立大学(前期)は一校しか受けることができないため、お金がかかるか否かにかかわらず、当然受験校を絞る必要がある。受験日の日程のスケジュール調整も大切だし、体調の管理もシビアである。お金がかかろうとそうでなかろうと、受験生は必然的に受ける大学を絞らざるをえない。

 

ところが就活の場合は、それが内定獲得につながるか否かは別として、大学受験のように「この業界の大手は一社しか受けることができない」などということは起こらない。もしやりたいことがわかっていたとしても、適正が定かでない場合(おそらくたいていの就活生が、自身の「可能性」を捨てきれない)は、何社も受験したくなるのは当然のことだ。受験料についても、一般的な家庭なら親が負担するだろうし、受験料が高額だから行きたい大学を絞れ、という親はそもそも滅多にいない。なぜなら親は、自分の子供にできるだけ偏差値の高い大学に行ってほしいのであって、自分たちの財布の中身の事情のせいで、子供の将来の可能性を損なうかもしれないということには耐え難いからである。だから、いくら受験料が高額になったところで、それは受験生が大学選びにより真剣にならざるを得ないことを意味しない。

 

つまり、入社試験で受験料を課したところで、ちきりんの言うように、「家庭の経済事情によって就活に不利・有利が生じることはない」だろうが、それは親が受験費用をなんとかして捻出しようとするか、もしくは自分の可能性を一つでも残しておきたい働き者の大学生が、学業をおろそかにしてまで必死にお金を貯める結果である。なので、受験料を導入することによって学生がより必死に企業選びをして、企業も採用の手間が減るだろうという予測は楽観的すぎであり、ただ単に就活生の親が、交通費やリクルートスーツなどの負担の上に、さらに企業にもお金をたくさん支払うだけになる。これは「就活市場が改善した」といえるのだろうか。大学の受験料と入社試験の受験料を比較するのはずいぶん短絡的な議論である。

 

同様に、受験料を徴収することで学生が企業選びに真剣にならざるを得ない、というのもおかしい。そもそも「企業選びに真剣になる」とは、どういうことを指しているのだろうか。「自分が『本当に』働きたい企業」や、「自分の能力や、正確が、企業風土・文化とマッチしていそうな企業」に、エントリーをしぼるということだろうか。もし、そうだとしたら、全く的を射ていない主張だと思う。ちきりんのブログでは、「とりあえず知っている企業にエントリーしまくる人」は、「自分のアタマで考えても、どこの企業を受けるべきかわかりません。でも、誰かが指標を作ってくれて、『お前の実力ならこの大学を受けろ(この企業を受けろ)』と言ってくれたら、どこを受けるべきかわかります」という人だと言って痛烈に批判している。

 

しかしちょっと待て。そもそもこの主張、受験料を導入する是非とまるで関係がなくなってしまっている。先述したように大学受験にしても就活にしても、結局費用を負担するのは親であるケースが圧倒的に多い。子供がその会社に行きたいというなら、夕食のビールを削ってまで、受験を金銭的にサポートするのが親というものだろう。

 

とにかくちきりんは、大学生がとりあえず知っている企業とイメージだけで就活をする大学生がいることに苦言を呈しているだけであって、受験料制度を導入するとその状況が改善される、ということについてなんの根拠も示していないし、論点がずれている。私には、企業が受験料を導入するからといって、学生が自分の将来についてより真剣に考えるようになる、などとは思えない。イメージだけで就活をする学生が存在するのはたしかではあるが、それがお金というフィルターによって淘汰されて、結果として自分に合った就活の方法を選択できるというのは、やはり楽観的な考えだ。

 

たとえ受験料が発生するから受験する企業を絞ろうと思ったとしても、それは「より自分にふさわしい仕事・業界に絞る」というより、「よりネームバリューがあるところに絞る」、「よりイメージがいい企業を優先して受験する」なんてことになるだけだろう。ちきりんのいうように「自分のアタマで考え」た結果として、自分に合った風土を持つ中小企業を発見できる学生が、果たしてどれだけいるのだろう。

 

受験料導入の末路として、「親の金銭的負担が増え、その分は企業の採用活動経費削減に使われる(=すなわち、利益になる)」もしくは「学業よりバイトを優先する学生が増える」か、「ネームバリューのある大企業に応募が集中して、中小企業や就活生にあまり知られていない企業では、ますます優秀な学生を獲得しにくくなる」というオチが待っているかもしれない。

 

このように考えると、エントリーする企業を絞るということは、必ずしも「自分のアタマで考えて、自らの適正にあった企業を選択する」ことではない。それを見落とすと、有料化したから就活、採用活動の質が上がる、という短絡的な結論を導いてしまうのである。今回のドワンゴの受験料徴収は、新卒一括採用という制度の「ガタ」にスポットライトが当たるきっかけとはなったものの、有効な解決策とは思えない。

 

ちきりんは「大学に入る理由も、本来は偏差値が高いからではなく、入学してからやりたいことがあるということが前提」と言っているが、高校から高等教育に至るまでの教育の抜本改革がなされない限りは、お金を取るか取らざるかみたいな議論は無意味に思えて仕方ない。とにかく、就活生の私としては、高額な受験料を徴収する企業が続々と出現するという悪夢が現実にならないことを祈るばかりである。